数日前、Twitterで見知らぬ方とちょっとした問答をしました。
その人が、「何事も経験しないとわからない。生きている人間の語る死生学に、何の意味があるのか」といった趣旨のことをつぶやいていたので、ぶしつけながら絡んだんです。
確かに、死の何たるかは結局のところ、実際に死んでみるまでわかりません。臨死体験なるものがありますが、あれは所詮疑似体験に過ぎず、参考程度にしかなりません。
でもだからと言って、生きている者は死について考えたり学んだりしても無意味だ、とするのは乱暴じゃないでしょうか。もちろん、上記の方のような考え方の持ち主は、あえて死生学なんかに関わらなくてもいいとは思いますが。
生きている人間が、自分の死、そして周囲の人の死とどう向き合うか。そして、限りある人生において、やがて必ず訪れる死をどう位置づけるか。そうしたことを考える上でのいわばガイド役として、死生学という学はあっていいし、また大いに役立つと考えます。逆に、死から目をそらした生というものは、どこか空虚で薄っぺらなものになることが避けられないような気がするんです。
「百聞は一見にしかず」は、多くの場合、真実でしょう。けれど、体験してみないとわからない、というのは、違うんじゃないでしょうか。人は、学ぶことのできる生き物ですから。