生前準備が「当たり前」となっていない我が国では、あえてそれをやる方の側に理由や動機付けが必要となります。
多いのは、
- 自分の死後、家族に手間や迷惑をかけさせないため
- 残りの人生を前向きに生きるため
- 死んだあとのことを決めてすっきりしたいため
といったあたりでしょうか。
これがいずれ「やって当たり前」となると、逆にやらない方の側に理由が必要となります。こちらは上の動機付けとは違い、「言い訳」とでも申しましょうか。
- 家族に任せてある
- 死んだあとのことを気にしても仕方ない
- 生きているうちは生きることに専念したい
といったところでしょうか。
価値観の自由はあってしかるべきと考えますが、「どんな生前準備をするのか」についての自由はあっても、「生前準備をするのかしないのか」についての自由はないものと私は考えます。屁理屈のようですが、生前準備を意識的に行わない人は、無内容の生前準備を選択しているのです。
私が生きている間に、「自分は生前準備なんてするものか!」という風な人が白い眼で見られるようになる世の中にする。それが私の志の一つでもあります。