不条理な殺人事件が起こったとき「なぜ人を殺してはいけないの?」なんて子供が訊いてきたりしますよね。これに対する答えは明快で、普遍的です。
殺したいと思ったら誰でもいくらでも殺していい、なんてことになったらその社会は成り立たないからです。復讐が際限なく続いて、最後の一人になるまで止まらないかもしれません。社会を成り立たせようと思ったら、他人を殺してはいけないと取り決めるしかないのです。
他方で、「なぜ自ら命を絶ってはいけないの?」はそれほど普遍的な答えは用意できそうにありません。端的な例で言えば、親の庇護のもとにある小中学生がこう聞いてきた場合と、逆に子もなく親・きょうだい・配偶者などにみな先立たれた老人では、全く違うでしょう。
また何らかの答えを他人が告げたからと言って、本人が納得するかどうかはまた別の話です。
「人を殺すな」のほうは、他人に危害がある話なのでいわば「命令形」が成り立ちます。けれど「死ぬな!」のほうは、そこまで普遍性を持ちません。当人をよく知る人、人生をある程度共有した人ならともかくですが、赤の他人が言っても、説得力ありませんよね・・・。それどころか昨今の流行り文句みたいに「死ぬなら独りで死ねば?」と言われちゃうのがオチです。
こうした議論は、人によっては言葉の遊びとか思考実験に過ぎない、と感じるかもしれません。
けれど安楽死のことなどを議論し始めたら、いわばこうした哲学的な問いなり命題を避けて通ることはできそうにありません。四六時中考えているわけではありませんが、日本の安楽死論議に強い関心(そして自分もするかも、という点では利害もを持っている自分としては、三度の飯を多少飛ばしてでも、あるいは睡眠時間を削ってでも考え、論じるに値することだと思っておりますよ。
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