今どき流行らない考え方かもしれませんが、実はこれが生を意味あるものにする秘訣、なのではないでしょうか。
自分の一生では達成できないかもしれない事業やプロジェクト、あるいはもっと大きな「流れ」とでも言うべきものに、自分の人生をいわばパーツとして差し出す。
「あなたの人生の”意味”は何ですか?」と訊かれた時に、中身のある回答ができるのは、そういう覚悟のある人だけでしょう。そうでなくて自分一個の欲望や野心を語るだけでは、他人にとっては何の価値もありません。「どうぞご勝手に」と言うくらいのもんです。
以前ドラッカーの「何によって憶えられたいか」という問いを紹介しました(といっても、5年以上前の記事です)。その問いにまともに答えられるのも、自分一個の生を超えたものを見据えて生きている人だけでしょう。
何によって憶えられたいか | 志の輪、広げよう。(2008-06-27)
あるいはヴィクトール・フランクル言うところの「人生の意味を問われているのはあなた自身である」というのも、これに通じる発想です。
もちろん、当ブログのタイトルにある「志」も、そうしたものであるべきと考えています。世のため人のためにならないものは野望とても呼ぶべきで、志と言うのはふさわしくありませんから。