何によって憶えられたいか

投稿者: | 2008-06-27

昔、「あなたの夢は何ですか?」と誰彼構わず訊きまくる先輩というか上司がいました。その質問も悪くはないんだけど、これはもっと的確で、もっと鋭いかもしれません。「何によって憶えられたいか」。

ドラッカーが著書の中で、恩師の言葉として記したものだそうです。ある方のブログで知りました。そのブログでの引用部分を孫引きさせてもらいます。

私が13歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。「今答えられるとは思わない。でも、50歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ」

長い年月が経って、私たちは60年ぶりの同窓会を開いた。あまりに久しぶりのことだったため、初めのうちは会話もぎこちなかった。するとひとりが、「フリーグラー牧師の質問のことを覚えているか」といった。みな覚えていた。そしてみな、40代になるまで意味がわからなかったが、その後、この質問のおかげで人生が変わったといった。

今日でも私は、この「何によって憶えられたいか」を自らに問い続けている。これは、自らの成長を促す問いである。なぜならば、自らを異なる人物、そうなりうる人物として見るよう仕向けられるからである。運のよい人は、フリーグラー牧師のような導き手によって、この問いを人生の早い時期に問いかけてもらい、一生を通じて自らに問い続けていくことができる。

「何によって憶えられたいか」という問いに答えられるということは、何に人生を捧げるか、はっきりと見定めることができているということでしょう。だから、13歳の少年少女には答えられなくて当然。ようやく40代になって意味がわかるようになり、50歳になっても答えられなければ「人生を無駄にしたことになる」。

何となく孔子の言葉を連想させますね。「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」。

人生は、自ら「これのために生きる」と思い定めなければ、人生あるいは生活の方が人を振り回すことになる。一定の年齢までにそれが見つからなければもう手遅れで、以後の人生は厳しく言えばただ生きているだけの価値しかない、ということになるのでしょう。もっとも、今日では50歳をその限界とするのは早すぎる気がしますが。

あなたは周囲の人々に、何によって憶えられたいですか。今後私は、この問いを折に触れて自分にも、周りの人間にもぶつけていこうと思います。もちろん現時点での私の回答は、「”新しい形の遺言を弘めた男”として憶えてほしい」です。

ところでこのフリーグラー牧師は、「何によって憶えられたいか」を問いかけた教師として生徒達に記憶されることとなったわけですが、その生徒の中にドラッカーのような世界的な著述家がいたというのは、やはり幸運というしかありません。ドラッカーを通じて、何万人、あるいは何十万人がフリーグラー牧師の教えを知ることになったわけですから。そしてドラッカーを読んだ人は、この問いを生徒に部下に後輩に子供に投げかけ・・・。この問いが世界中に広まれば、人々の生き方も少なからず変わるでしょうね。

繰り返します。あなたは周囲の人々に、何によって憶えられたいですか。

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