「遺体に学ぶ」を読みました。感想はこちらに書いた通りですが、告知の部分だけは、かなり考えさせられました。
筆者の主張は、告知の是非、必要性は状況による、というものです。状況というのは、患者の性格はもちろん、家族との関係や病状などです。
これは広く終末期医療についての事前の意思表示全般に言えることですが、万人に当てはまる唯一解なんていうものがないのはもちろん、ある個人にとっても、どんな状況にも当てはまる事前の意思決定はあり得ません。いつだって、コトは状況によるんですね。
ただ、あまりそればかりを強調すると、事前の意思決定・意思表示が意味をなさなくなります。
大別すると、告知についての考え方は、3つに分けられるように思います。あとは、個人の経験や信条によって、ニュアンスに違いが出る程度でしょうか。
- 原則告知を望む。ただし、家族や医師の判断で告知しないことも可。
- 原則告知を望まない。ただし、家族や医師の判断で告知することも可。
- 告知するかどうかの判断は、家族や医師に任せる。
3.はともかく、1.と2.については、家族や医師の裁量で、原則を覆すことを認めています。ただし、日頃から夫婦間、親子間などでお互いに死生観や医療についての考え方を話し合っておき、相手の考えを理解しておけば、いざというときに、自信を持って原則を覆すことができるのではないでしょうか。端的に言えば、原則に対する本人の執着度が強いほど、原則を覆すことに慎重になるでしょう。
さてこうした「家族の裁量」は、私の言う「望みの遺言」には多かれ少なかれついて回ります。事前の想定通りに事態が進むとは限りませんし、意思決定も細部までなされるとは限らないからです。そんな時、「私はこう望むが、最終的にはお前(たち)に任せる」といった文言があれば、家族はどれだけ気が楽になるでしょうか。
「望みの遺言」に関しては、何が何でも自分の思い通りにさせようとするのは、わがまま以外の何物でもありません。