私の友人に、まとめ本、図解本といったたぐいの本をやたら好む男がいます。
そうした本を好むこと自体は一向に構わないのですが、私が問題だと思うのは、彼がほぼもっぱらその手の本だけで知識を手に入れようとすることです。そうした本にはいろんな人の説や理論、著作が紹介されていたりするものですが、その元の本に当たろうとしないんです。
彼とは毎月1度、ささやかな勉強会をしているのですが、何と次回は、そうしたまとめ本だけを使って、現代思想について語ろうという!
こうした彼の姿勢を「許せない」と感じてしまう私。知に対する考え方の違いがよく表れている気がするので、あえて言葉にしてみます。
まず私は、「知的誠実」というものを大切にしています。いや、実際大切にできているかどうかはともかく、大切にしたいと思っています。そして、読んでもいないのにある著者やその思想について語るのは、著者に対する侮辱だとすら感じます。
そもそも、書かれたものですら著者の考えたこと、感じたことの一部に過ぎません。それをさらに要約し、あるいはわかりやすくレッテル付けしたもので満足していたのでは、活用するにしろ、壁として対峙するにしろ、元の思想を自分の血肉とすることはできません。
例えてみれば、まとめ本でわかったつもりになるのは、簡略な地図で道路や建物の配置を把握するに過ぎません。原著に当たるのは、実際にその土地に立ち、その空気を肌で感じることです。(厳密に言えば翻訳にはフィルターが掛かっているのですが、それはひとまず措きます)
もちろん、あらゆる分野について「実地を訪れる」のは不可能です。ヒマな学者やリタイヤした老人でもない限り、読書に充てられる時間には限りがありますから。ですが、いつもそうしたまとめ本ばかりに頼っているのは、知的怠惰であり堕落だと思うんです。そしてそんな姿勢では、知的生産者になれないのはもちろん、結局は他人の高度な知的産物を我がものとすることもできない。まさに永遠のディレッタントで終わるでしょう。
次回の勉強会(というか、その後の飲み会)では、友人にそんな持論をぶつけてみようと企んでいます。
さて、そんなことを考えていた折、こんなエントリに出会いました。
読んでいない本について堂々と語る方法(情報考学 Passion For The Future)
ここで紹介されている本自体は、面白そうかなと思います。ただ日本語のタイトルについて言えば、「読んでいない本について堂々と」というより「読んでいない本についていけしゃぁしゃぁと」の方が、実態に近いのでは?