ここのところ、自分の中で倫理に関わるようなことを考える機会が多くなっていることに気が付きました。
安楽死のことなどは、まさにその最たるものでしょう。
他にも、テクノロジーの発展に伴い、人類にとって「できること」の範囲が広がりつつあるため、社会としてどこまで認めるのか、どんな規制を設けるのか、といったことがいろんなところで問題になってきています。
昨日は、ゲノム編集についての記事を読みました。
(記者解説)ゲノム編集、その功罪 遺伝病防ぐ期待/「優生的」強い懸念 科学医療部・福地慶太郎:朝日新聞デジタル
これなども悩ましいところで、
- 科学的に可能なことは全てやりたい放題にする
- 人類にとって危険なので、研究や技術開発そのものをすべて禁止する
といった両極端の道は解決策にならない以上、いろんな点についてきめ細かな議論を積み上げ、社会としてのルール形成をはかっていくほかないのだと思います。
テクノロジーの進歩は意外と速いので、「慎重に議論を進める」といった悠長なことを言っていたのでは、結果的に自由放任みたいになりかねません。「歯止め」は必要だと思います。でけなれば、あるとき急にその反動で「一切認めない!」といった方へ暴走しかねませんから。
それにつけても、我等はこうした倫理的なことについて考える素養・トレーニングのようなものをほとんど積んでいないことを痛感します。こういうことに自分の人生観や生命観、場合によっては宗教観みたいなものをうまく絡めつつ、態度を決めていくというのは大切なことです。これからの時代の社会人にとって大人の教養の一つ、みたいなものになっていくのかもしれません。
まずは、こうした問題に目を向け、自分で考えてみる習慣を付けていきたいものです。
※世にナントカ倫理学者という人たちがどれだけいるのかはわかりません。ただ彼ら・彼女らは、我等のように普通に社会で生活している者の思考にとってはほとんど「役立たず」と言っても良いくらいの存在だ、という印象です。