「遺言書重視の誤り」に反論します(1)

投稿者: | 2010-10-01

私らの商売のジャマするかのような文(笑)が、ネットに現れました。あまり注目されてはいないようですが。

「営業妨害」は捨て置けないので、反論およびコメントさせていただきます。元の文も「上」「下」に別れており、こちらの話が長くなりそうなので、何回かのシリーズとしてエントリーしますね。

まずは、「上」のほう。

遺言書重視の誤り(上)

【PJニュース 2010年9月29日】書店の法律書のコーナーには「遺言書を作成しよう」的な書籍が並んでいる。まるで遺言書を作成すれば憂いがなくなるとでも言うかのようである。しかし、死後に執行される遺言には説明責任を果たせないという致命的な欠陥があり、遺言書の存在によって相続紛争が激化したケースもある(林田力「「一澤帆布」の泥沼相続紛争は「遺言」が罪つくり」PJニュース2010年7月5日)。

世の中には漠然と「遺言ブーム」といった風潮が醸成されつつあります。たぶんこの文は、そうした風潮に異を唱えるのが目的かと推察します。もっと言えば、そうしたブームでおいしい思いしている業者へのやっかみも、ないことはないでしょう。

さて、私の基本的スタンスは「遺言は、書けば万事安心といったものではない。けれど書かないよりは書いた方がずっとまし」というものです。遺言があるばかりにトラブルが生じる。そうしたケースがあるのは事実でしょう。けれど、だから書かない方がいい、ということにはなりますまい。そのことをお断りした上で・・・

遺言書を過度に重視することは誤りである。死後の財産分配に思いがあるならば、だまし討ちになるような遺言ではなく、生前から相続人に説明しておくべきである。

生前からの説明の必要性については、同感ですね。家族もある程度「予測」なり「期待」を持っているものですから、それを裏切るような場合にはとりわけ、意思を生前から明かしておく方が賢明です。

遺言書は作成することができるもので、作成しなければならないものではない。民法では法定相続分が定められており、遺言がなければ、それに従って遺産分割を行えば済む問題である。

これは、あんまりです。「遺言を書くべき」という話が、どういう文脈で出ているのか、ご存じないのでしょうか。遺族(およびその配偶者が口出しする)による遺産分割はトラブルの温床だから、故人が生前の意思を明らかにしておくべき、と言っているのに。遺言があるばかりにトラブルとなるケースもあるでしょうが、遺言がないことでトラブルになるケースに比べれば、無視できるくらいわずかなはずです。

ここでは均等相続に則った遺産分割が道徳的には期待されるものであり、それに背く遺言を優遇する必要はない。

これは哲学の問題になります。ただ、制度によって均分相続が強要されるより、故人の意思や家族状況によって柔軟に相続割合を決められる方が、何かと優れているのではないでしょうか。私は遺言自由をもっと拡大すべき、と考えておりまして、端的には遺留分の廃止ないし大幅縮小を提唱しております。

文書偏重主義が支配する日本の裁判所では遺言書を錦の御旗のように扱う傾向があった。遺言を可能な限り適法有効なものとして、遺言者の真意の実現に資するように解釈すべきとする傾向である。

こうした傾向への批判は「下」で展開されています。私も、次の(2)以下で。

「遺言書重視の誤り」に反論します(1)」への1件のフィードバック

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