震災発生から一年が経った3月14日を迎えたとき、ネットで奇妙な論争(?)が巻き起こりました。
地震発生の14時46分を期して、黙祷すべきか否か、というものです。すべきと考える人は、自分が単にするのでは飽き足らず、それを周りに吹聴し、さらには「みなさん、黙祷しましょう!」と呼びかける。一方、それに反発する人は、「黙祷の押し売り」に異を唱える。ざっと、こんな構図です。
震災後我が国では、「絆」が連呼されるのとは裏腹に、かえって価値観や意見の分裂が目立ちました。黙祷というささやかなテーマですら、この調子です。震災直後には「不謹慎」とか「自粛」という言葉を嫌になるほど聞きましたが、あるいは黙祷をめぐっての対立は、その延長かもしれません。
ちなみに私は、一応自宅にて一人で黙祷をしましたが、それをTwitterなどでことさらにアピールすることはしませんでした。偽善的とまでは行かないまでも、良い子ぶりっ子することに違和感を感じたからでしょうね。同時に、黙祷ムードに過度の反発を示す人にも、「大人げないなぁ」と感じたものです。
さて、こうした価値観や意見の分裂は、大災害が起ころうが埋まるものではありません。むしろ個々人が必死で生きようとすればするほど、なおさら露わになるものでしょう。違いは違いとして互いに尊重しつつ、それでもなお同じ社会の中でそれぞれが自分の幸福を追求するためにはどうすれば良いのか。
それが今、全ての日本人に問われているのだと感じます。